ノールズとバラチェフの戦いは野生VS野生の戦いですが、『対決』はもう一つの戦いも描き出しています。
ノールズは家族に電話するシーンがあるくらい、で生活感を感じさせない人物に描かれています(家族への電話のシーンから家族とはうまくいっていないことをうかがわせます)。それに対し、クラークやハックワースは生活感を滲ませます。クラークはウェスト・ポイント(士官学校)時代の話をハックワースとしたり、ハックワースは妻と教会に行っている話をノールズにします。彼らは冷戦終結という時代の流れにもうまく適応している軍人です。クラークやハックワースのほか、画面に登場する軍人たちは、理性で軍人としての欲求不満もコントロールできているのに対し、ノールズやバラチェフは欲求不満を解消するために、野生に身を任せて生きているのです。したがって、『対決』が描くもう一つの戦争は、理性VS野生の戦いです。
理性で自身をコントロールできているハックワースやクラークが話すことは、ノールズには通用しません。ノールズとバラチェフは合理性とは無縁の世界で生きているのです。
『対決』にモスクワでの米ソのアメフトチームの交流試合を楽しむ米ソ両軍の兵士たちが、映し出されます。スポーツというルールでコントロールされた戦いは、ノールズとバラチェフの本能に従った戦いの対極に位置するものです。楽しそうにスポーツを観戦する理性ある他の兵士たちを映し出すことで、ノールズとバラチェフの異常性が強調されます。
『対決』は、野生VS野生、理性VS野生という次元の異なる2つの戦いを対比して描き、ドラマに奥行きを与えているといえます。