日本・香港の実力派の俳優たちが各キャラクターを説得力をもって演じ、コミックの世界を再現しています。場面が変わるたびに、新たな魅力的なキャラクターが登場するため、飽きることなくストーリーを楽しめます。
孔雀は、物静かで言葉も丁寧ですが、感情の乏しい人物として描かれるのがおもしろいです。感情が乏しいのは、出自が隠され、無の教えに従ってきたため。冴子にも、平気で冷たいことや皮肉を言うのですが、ドラマの進行とともにその内面が変化していきます。出生の秘密が明かされ、悪の種子として生まれた宿命と対峙しなければならなくなったとき、感情が溢れだします。それを孔雀は、「今、自分の世界が変わろうとしている」というセリフで表します。孔雀の内面の変化に大きな影響を与えるのが冴子の存在です。いつしか、互いに惹かれあうようになることで、孔雀は、初めて愛を知るのです。宿命と抗うことが『孔雀王』の最も大きなテーマといえますが、孔雀にとって宿命を克服することは、人間性を回復することを意味しているのです。
コンチェは、孔雀とは対照的に、軽いノリの飄々とした人物として描かれます。身のこなしも鮮やかで、さすがはアクション・スター、ユン・ピョウ。オーシャンパークのシーンや羅我、裏高野十二神将との戦いの場面では、アクションの見せ場をすべてかっさらっていきます。実は双子だったという孔雀とコンチェですが、最初はそりが合わないというのもおもしろいです。コンチェも自らの宿命と相対することになりますが、そんなコンチェに大きな影響を与えるのがアシュラです。コンチェは、アシュラが実は純真無垢な少女だということをいち早く見抜き、何とか助けようと懸命になります。自分もアシュラ同様、悪の種子として生まれてきたことを知るに及び、アシュラに自分自身を投影するようになります。コンチェは、アシュラを救うことで自分自身も救済し、自己を肯定することで、宿命を克服することになるのです。
孔雀とコンチェのメンター、慈空とジグメは、「宿命を乗り越えてみよ」、「皆魔障外神の復活を阻止できるのは孔雀とコンチェしかいない」と呼応するように同じセリフを口にします。孔雀とコンチェを導く2人は、信念を共有しているのです。その信念の共有が、孔雀とコンチェに受け継がれるのです。クライマックスに登場する孔雀明王は、宿命に抗う強さと同時に、敵(つまりアシュラ)をも救う慈悲の心も具現化しているのでしょう。この2つの要素こそ、2人のメンターから孔雀とコンチェが受け継いだものに他ありません。孔雀と慈空、コンチェとジグメという善の師弟関係に、相似するかのように登場する羅我とアシュラという悪の師弟関係。善の師弟関係が悪の師弟関係を打ち砕くのです。
冴子は、80年代末、つまりバブル景気の真っ只中の日本のキャリア・ウーマンとして登場します。それが、孔雀とコンチェとの出会いで価値観が変わり、2人の冒険に同行することになります。2人と共にいた方が充実した人生が待っていそうだ、と言う冴子ですが、思い切って仕事を辞めるあたりは、80年代末の日本の企業社会も現在と同様、ギスギスしていたことを伺わせます。冴子の冒険への参加は、自分らしさの追求、自分探しの典型であり、2020年代の今の観客になお一層共感されそうです。企業人から自由人へ変化し、夢を追う冴子のキャラクターは、時代を先取りしていたと言えそうです。
ラストで皆魔障外神を倒し、元気になったアシュラとともに、冴子と慈空のもとに帰ってくる孔雀とコンチェの表情は晴れ晴れとしています。人間的に成長した2人が、新たな冒険に旅立つことを予感させて映画は幕を閉じます。したがって、『孔雀王』は、ヒーローの物語というより、ヒーロー誕生の物語というほうが正しいでしょう。