『孔雀王』が描く現代社会は、魑魅魍魎がうごめき、災いがもたらされようとしている末法の世界です。災いを招く要因が人の瘴気です。孔雀が「恨み、つらみ、ねたみ、そねみ、限りない欲望。人の瘴気が鬼を呼ぶ」と語るように、人間の悪意、業というものが地獄門を開き、災いを皆魔障外神という存在で具現化するのです。また、コンチェが「時代が進んでも、人の気持ちは同じ」と語るように、人間はいつの時代も邪心を内面に抱えています。文明が発達するほど、欲望が拡大し、邪心も大きくなっていくのでしょう。そんな現代だからこそ、無垢な心を回復することが大切だということを『孔雀王』は、アシュラという少女を通して、描いていると言えます。地獄門を開く鍵とされるアシュラは、魔の存在と無垢な少女という二面性をもっています。しかし、ラストで、孔雀とコンチェによって救済されたアシュラは、完全に無垢な少女として、冴子、慈空のもとに帰ってくるのです。
また、前半に登場する「大恐竜展」のくだり。やや本筋とは関係なさそうなシークエンスですが、地獄門を開き、皆魔障外神を復活させるのが人間の邪心だということを語るうえで、実は重要な役割を担っているということがわかります。人間の呪いが、魔界の者の姿となって現れることをSFXとアクションを用いてうまく描写しているといえるでしょう。
この世を支配する機会をうかがう魔界の住人は、この世が人間の邪心で満たされる時を今か今かと待っています。そして、皆魔障外神が復活し、この世を魑魅魍魎が支配するとき、人間は生きながらにして地獄に落ちる、と慈空は語ります。映画では、孔雀とコンチェの活躍で、それは阻止されますが、実はこの世が人間の邪心で満たされたとき、それは最も生きにくい世界となり、地獄ともいえる世界になります。現実世界がそうなることを防ぐことができるのは、私たち自身しかいないことを『孔雀王』は問いかけていて、現代社会に批判的な眼差しを向けているといえるでしょう。