昨年末に『ナポレオン』が公開されたリドリー・スコット監督。今年も9月にプロデューサーを務めた『エイリアン: ロムルス』が公開、11月には自身の監督作『グラディエーターⅡ』が公開されます。『エイリアン: ロムルス』は、『エイリアン』第一作と『エイリアン2』の間に起こった出来事を描くとのこと。また、『グラディエーターⅡ』は、第一作の十数年後が舞台になる模様。『エイリアン: ロムルス』も『グラディエーターⅡ』も楽しみです。今回の「ちょこっと映画評」は、リドリー・スコットが2014年に発表した『エクソダス 神と王』を・・・
『リーピング』という映画の中で信仰心を失ったヒラリー・スワンク演じる大学教授が、『旧約聖書』の「出エジプト記」に書かれている十の災いは、科学的に説明可能だ」と言う場面があります。その真偽はともかく、十の災いを初めとする数々の奇跡を科学的に説明可能な出来事として描ききったのが『エクソダス 神と王』です。それでは、奇跡や信仰を否定する立場から「出エジプト記」に迫ったのかというと、映画の中盤あたりから徐々にそうではないことが明らかになっていきます。モーゼがエジプトに帰ってくるものの、ユダヤ民族の解放は遅々として進みません。それどころかファラオは態度を硬化させ、ユダヤの民の苦しみが増してしまいます。モーゼが少年の姿をした神に何もうまくいかないじゃないかと訴えたとき、神は「それはあなたが考えたことだ」と突き放すように言います。ここで神とモーゼのユニークな関係が明らかになります。神がモーゼに意志を伝え、それをモーゼは実行します。実行するのはモーゼであり、モーゼは主体的な自分の意志をもって実行します。その時、神の意志はモーゼの意志となります。神の意志をモーゼは実行しました。それがうまくいかないとモーゼが神に問いただしても、神に「あなた(モーゼ)が考えて実行したのではないか」と逆に問いただされたのです。ここで神とモーゼは互いに独立した存在ではなく、分離できない不可分の存在となっています。これこそが信仰者の「祈り」の姿です。「祈り」とは神と人間との対話であり、不可分の関係になることです。「祈り」によって、神と信仰者の交わりが深められると、神の意志と信仰者の意志との間の境界線が消えていくのです。映画の中でモーゼは少年の姿をした神と対話をし続けます。しかし、他の登場人物に少年の姿は見えません。モーゼと神が不可分の関係になっているからです。ここに、この映画は「祈り」という具体的に表現することが難しい概念を映像化することに成功しているといえます。ラストで進んでいく移動式の幕屋に乗るモーゼを見送るように少年が消えていきます。これは不可分の関係だったモーゼから神が離脱していくことによって、モーゼの役割が終わったことを示すとともに、モーゼの死をも意味しているのでしょう。
セシル・B・デミルの『十戒』をはじめとするかつての聖書映画は、聖書を逐語的に描くことで、どうしても私たちの世界とは違う異世界を見ている気分にさせるきらいがありました。それに対し、この映画の科学的に説明可能な出来事として奇跡を描く手法は、この映画に描かれた出来事が、私たちが生きる現在に違和感なくそのままつながっているというリアリティを感じさせます。そのリアリティの中で神とモーゼの不可分な関係、つまり「祈り」という抽象的な概念を映像化することにこの映画は成功しています。壮大な絵巻物のごとく聖書を描いた『十戒』から半世紀以上を経て、映画は、「祈り」という人間の内面的な営みを描出するようになったといえるのです。