インターステラー ~ちょこっと映画評~

インターステラー(2014年アメリカ 日本公開: 2014年)Interstellar

<ちょこっと映画評>その1

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 「ちょこっと映画評」と題しまして、これまで鑑賞してきた映画について、思ったところを書き連ねたいと思います。よろしくお願いします。

 現在、クリストファー・ノーラン監督の新作『オッペンハイマー』が公開中です。そこで今回は、同じノーラン監督の『インターステラ―』について・・・

インターステラ―

 クリストファー・ノーランは、神話性を担保しながら、徹底的なリアリズムでヒーローを描いてきました。そのリアリズムは、実現可能性にこだわったもので、圧倒的な説得力を作品にもたらすことに成功しています。今、述べたことはダークナイト三部作にも『インターステラー』にも共通して言えることです。私は、神話性、いわゆるキリスト教的神話性を土台にしたリアリティ溢れる作品世界はダークナイト三部作で到達し、次の『インターステラー』は全く別のアプローチを見ることになるのでは、と考えていました。しかし、よい意味でその予測ははずれ、『インターステラ-』はダークナイト三部作を補完する作品になっています。『バットマン・ビギンズ』は、幼少期のブルース・ウェインから始まり、放浪の末、成人した彼がバットマンとしての活動を始める物語でした。これはまさにキリスト教におけるイエス・キリストが生誕し、30歳を過ぎたあたりから布教を始める姿と見事に重なります。キリストが悪魔の誘惑を退けたのと同様、ブルース・ウェインも影の同盟への入会を退けました。続く『ダークナイト』ではハービー・デントの罪をかぶり姿を消すまでが描かれました。これはキリストがすべての人間の罪の贖いのため十字架にはりつけになった姿と重なります。『ダークナト・ライジング』は再びバットマンとして世に出て、自らを犠牲にして死に(実は「死」ではなく「引退」でしたが)、バットマンとしての働きを終え、自分の役割をロビンに託して終了しました。これは、キリストの復活とキリストが弟子たちに自らの役割を託して昇天したことに見事に一致します。キリストの「世の中への登場」「十字架」「復活」「昇天」ときて、完結したと思っていましたが、『インターステラー』を見て、なるほど、と膝をたたきました。「昇天」に続くキリストの「再臨」が描かれていたからです。「聖書」には「再臨」のことは明確に書かれていません。「再臨」は人間には分からない状態で到来すると考えられています。クーパーが時間さえも目で見える異次元の世界から、過去のマーフに本棚の裏からメッセージを送ろうとしますが、その意図がマーフにはなかなか伝わりません。その状態はまさにクーパーが時間・空間を制御できる域に到達し幼いマーフのもとに帰ってきたことを表現しています。ここでノーランは、人間には方法は分からないけれども必ず起こるとキリストに約束されている、キリストの「再臨」を描くことに成功しています。クーパーは、宇宙へ旅立つ前にマーフに約束します。「必ず帰ってくる」と。そして実際にクーパーはマーフのもとに帰ってきます。キリストが人類に「再臨」を約束したのと同様、クーパーもまた約束していたのです。そしてクーパーがしようとした人類の救済はクーパーからのメッセージを受信したマーフによって達成されるのです。したがって、この映画の核は、クーパーが時間・空間を超えてマーフにメッセージを送ろうとする場面であり、その後のクーパーが、老齢となり亡くなる前のマーフに再会するシーンで、「約束」を果たしたことを互いに確認する時に私たちは心を動かされるのです。
 ダークナイト三部作と『インターステラー』は四部作であり、ここにクリストファー・ノーランのキリスト教的神話の具現化は完結したといえるのです。

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けんいち

管理人のけんいちです。 関西在住の映画の思い出ライター、映画グッズコレクターです。