『天使行動』は、西城秀樹を主演に迎え、香港で製作されたハードアクション映画です。
このころ、つまり1980年代末から1990年代初めは、香港映画が一番元気だったころでした。『男たちの挽歌』(1986年)が公開され、大ヒット。<香港ノワール>と呼ばれるジャンルが生み出され、類似の作品が量産されました。『男たちの挽歌』とその続編『男たちの挽歌Ⅱ』(1987年)のプロデューサーのツイ・ハークと監督のジョン・ウー、そして主演のチョウ・ユンファが注目され、彼らの作品が劇場とレンタルビデオで次々とリリースされました。
ツイ・ハークは、製作した『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』(1987年)も大ヒット、主演のジョイ・ウォンも一躍人気を集めました。続編の『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー2』、『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー3』(1991年)も公開されました。手がけた作品が多彩で娯楽に徹していることから、ツイ・ハークには、<香港のスピルバーグ>という宣伝文句がつけられました。ツイ・ハーク製作、ジョイ・ウォン出演の日本・香港合作映画『スパイゲーム』(1990年)も日本で公開されました。
ツイ・ハーク製作、ジョン・ウー監督、チョウ・ユンファ主演の傑作『狼/男たちの挽歌・最終章』(1989年)もこのころの作品。『狼/男たちの挽歌・最終章』は、アメリカでも公開され高い評価を受けました。
ジャッキー・チェンもあいかわらず絶好調。『プロジェクトA2/史上最大の標的』(1987年)、『九龍の眼/クーロンズ・アイ』(ビデオ/DVDタイトル『ポリス・ストーリー2/九龍の眼』)(1988年)と自身の大ヒット作の続編を手がけたのち、監督・主演作の集大成『奇蹟/ミラクル』(1989年)を発表します。『サンダーアーム/龍兄虎弟』(1986年)の続編で監督・主演を務めた『プロジェクト・イーグル』(1991年)を製作したのち、90年代は主演に専念し、『ツイン・ドラゴン』(1992年)、『ポリス・ストーリー3』(1992年)、『酔拳2』(1994年)などの作品を発表します。やがて『レッド・ブロンクス』(1995年)が全米で大ヒット。これが布石となり『ラッシュアワー』(1998年)でアメリカに進出するようになります。
ツイ・ハークは、ジェット・リー(当時は、リー・リンチェイ)を主演に迎えた『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地黎明』(1991年)を製作・監督。これまた、大ヒットし、香港に<武狭映画>ブームを巻き起こします。日本でもその続編『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地大乱』(1992年)が劇場公開されました (劇場公開タイトル『ワンス・アポン・ア・タイム 天地大乱』) 。
ジョン・ウーは、『男たちの挽歌Ⅱ』のアメリカロケでアメリカの映画撮影スタイルを体験、チョウ・ユンファ主演の『ハード・ボイルド 新・男たちの挽歌』(1992年)を監督したのち、『ハード・ターゲット』(1993年)でアメリカに進出します。そして、アメリカ進出第2弾の『ブロークン・アロー』(1996年)が大ヒットします。
ジャッキー・チェンの『ツイン・ドラゴン』をツイ・ハークとともに共同監督したリンゴ・ラムも『マキシマム・リスク』(1996年)でアメリカに進出します。続いて、ツイ・ハークが『ダブル・チーム』(1997年)で、チョウ・ユンファが『リプレイスメント・キラー』(1998年)でアメリカに進出しました。ジャッキー・チェンと『ポリス・ストーリー3』で共演したミシェール・ヨー(当時は、ミシェール・キング)も『007/トゥモロー・ネバー・ダイ』(1997年)で海外に進出しました。
1980年代末から1990年代の香港映画は、カンフー映画だけではなく現代アクション、香港ノワール、ゴーストもの、武狭映画など多彩なジャンルの作品が質・量ともに充実しました。向上したSFX技術も映画に大々的に導入されました。日本の東和ビデオは、この時期、自社がリリースする香港映画ビデオに「極東ハリウッドシリーズ」というブランド名をつけました。ここからもこのころの香港映画の活況がうかがえます。
また、香港映画の1980年代末から1990年代初めは、映画人が1997年の中国への香港返還を前にアメリカへ進出する胎動の時期だったといえます。彼ら香港の映画人は、アメリカでの自由な映画製作にその後のキャリアを見いだそうとしたのです。アメリカ進出を目指す香港の映画人の情熱が香港映画を質・量ともに充実させた一つの要因になったといえます。