『春来る鬼』は、青年さぶろうしが数々の試練を乗り越え、閉鎖的な村を変えていくまでを描きます。若さに溢れ屈強な肉体をもつさぶろうしが断崖絶壁から海に飛び込み、また、炎の中に挑んでいく姿は勇ましく、そのアクションは『春来る鬼』の大きな見どころです。さぶろうしが、頭屋に課される<試し>を克服し、最後には自ら村人のため火祭りの生贄となり、炎の中を通ることになります。村に受け入れてもらうために<試し>に挑戦してきたさぶろうしが、村人のために自己犠牲の行動をとるようになるのです。『春来る鬼』は、さぶろうしという青年の成長譚であると同時に英雄の誕生を描く英雄譚といえます。
クライマックスで、頭屋によって、鬼の岬の呪われた起源が明かされます。この<魂語り(たまがたり)>と呼ばれる、滝田栄演じる頭屋の渾身のモノローグは、『春来る鬼』のハイライトの一つです。鬼の岬の先祖は、南の故郷を追われ、土地を求め船出しました。しかし、船旅は苦難の旅で、先祖たちは飢え死にする者が出ました。そんな時、サメの群れに襲われ、先祖たちはサメの飢えを満たすために船底の死体、病人、老人を海に投げ込み、難を逃れたのでした。そして、鬼の岬に流れ着き、定住したのでした。疫病のジャビの蔓延は、生きながらサメの餌食にされた者たちの呪いだったのです。頭屋も先祖代々、ジャビに感染してきました。外界からやってきたさぶろうしが、この呪いを断ち切る役目を負うことになります。呪われた閉鎖的な村が変わるには、外からの新しい生命が必要だったのでしょう。高波となった潮目のとらえ方が、北の浜出身のさぶろうしと鬼の岬のくっくねの爺では、異なることがわかります。さぶろうしによれば、潮目は<神渡り>という吉事ですが、くっくねの爺によれば、それは<鬼渡り>という凶事です。さぶろうしは鬼の岬の村人とはもののとらえ方、見方が異なり、このこともまた鬼の岬に変革をもたらす存在になる、大きな要素といえます。頭屋は、ジャビに感染した最後の頭屋として生涯を終えるために、村人によって海に投げ落とされ、口走りのばんばも後を追います。そして、さぶろうしは、くっくねの爺とともに、村人をジャビの呪いから救うために、ゴロウザメを獲りに船出します。さぶろうしが村の新しいリーダーとなっていくことを予感させて『春来る鬼』は終わります。『春来る鬼』は、さぶろうしの生命力の物語です。ジャビはまさに滅びそのものであり、その滅びをもたらした呪いをさぶろうしの生命力が断つことによって、村を再生することになります。生命は常に障害を乗り越えながら連綿と続きます。鬼の岬にさぶろうしがもたらしたことはまさにそのことであり、『春来る鬼』は、生命賛歌の物語といえるでしょう。
『春来る鬼』は、先が読めないストーリーをさぶろうしの迫力のアクションを織り交ぜながら、テンポよく見せることに成功していて、飽きさせません。さぶろうしが経験する<試し>の行方にハラハラさせられながらストーリーが進み、最後には、村の起源の謎解きを見せるという構成も意外で、驚きに満ちています。
緊張感溢れるもストーリーだからこそ、ラストでゆのが見せる笑顔にホッとさせられます。数々の苦難に直面しながらもさぶろうしとゆのの愛は最後まで貫かれます。『春来る鬼』は、さぶろうしとゆののラブストーリーでもあるのです。