『パニッシャー』には、バラエティ豊かなキャラクターが登場し、それぞれのキャラクターが魅力的に描かれています。悪を成敗するパニッシャーを描く一方で、パニッシャーを捜すジェイクとサムを登場させることでストーリーが立体的に構成されています。この後に作られたトーマス・ジェーン主演版『パニッシャー』(2004年)と『パニッシャー: ウォーゾーン』(2008年)が、パニッシャーと敵という類型化された登場人物だけで構成されていることと比較すると、このあたりがドルフ・ラングレン主演版『パニッシャー』の特徴といえます。
パニッシャーは、闇の処刑人というのが一般的なイメージですが、この映画では、そのイメージ通り悪人を倒していく様を活写しながら、子どもたちを救出するというパニッシャーの全く異なる側面も描いています。自分の2人の娘とヤクザに誘拐された子どもたちは、親が刑事とマフィアという違いがあっても、親の影響で事件に巻き込まれた点で共通しています。自分の2人の娘を救えなかったパニッシャーにとって、子どもたちの救出は贖罪だったのかもしれません。
協力者テスビアンは、パニッシャーとのユーモアあふれるやり取りが楽しいキャラクターですが、時にパニッシャーに正常な判断を促す人物ともなります。パニッシャーに、マフィアの子どもたちが誘拐された原因は、パニッシャーがその親の力を弱めたからだと説くのです。
新しいパートナー、サムとともにパニッシャーを捜し求めるジェイクは、パニッシャーがかつて刑事フランク・キャッスルとして働いていた時、フランクとは相棒で無二の親友でした。ジェイクは、その友情を今も変わらず胸に抱いているのです。
サムは、ジェイクとパニッシャーを繋げる役目をします。サムのジェイクへの協力が起点となり、5年間孤独に戦ってきたパニッシャーが再び、人々と繋がるストーリーが描かれます。しかし、映画は、パニッシャーがその繋がりを全て絶つという結末を迎えます。
勢力維持を図るマフィアのボス、フランコもただの悪党ではなく、息子トミーへの愛からパニッシャーと共闘、さらにトミーへの愛から自己を犠牲にしようとします。最終的に、トミーを愛するがゆえにパニッシャーを殺そうとするのですが、このあたりの振れ幅の大きい行動の描写は、フランコを非常に人間味あふれるキャラクターにしています。
これらのキャラクターと比べると、ヤクザのボス、レディ・タナカは人間味を失った絶対的な悪として描かれています。劇中、フランコがタナカの壮絶な過去を話す場面があります。孤児院で育ったタナカには片時も離れない双子の弟がいましたが、その弟は組織の金を使いこみました。けじめを迫られたタナカは弟に料理を食べさせたあと、その喉をかき切ったのでした。ここから、タナカという絶対悪も家族を失った悲劇から誕生したことがわかります。したがって、同じ悲劇を背負ったパニッシャーとタナカは、悪を処刑する者と悪に生きる者として表裏一体のキャラクターといえます。『パニッシャー』が作られた80年代後半は、日本が経済力を背景に海外進出を活発にしているころでした。そのことと、映画に日本のヤクザが登場したことは無縁ではないでしょう。タナカのキャラクターに、当時日本で人気を博していた『極道の妻たち』シリーズ(1987年~1998年)の影響を指摘する人も多くいます。タナカは、最後は白塗りで登場しますが、ここには、深作欣二監督が時代劇(『必殺4/恨みはらします』(1987年)、『忠臣蔵外伝 四谷怪談』(1994年)など)で白塗りのキャラクターを狂気として描いたのと同様の常軌を逸した怖さが溢れています。
このように映画は、それぞれのキャラクターの強烈な思いが交錯していきます。パニッシャーの悪への復讐、神への祈りと問い、子どもたちへの情、ジェイクの友情、フランコの欲とトミーへの愛、悪に生きるレディ・タナカの狂気。これらの思いが絡み合うことが駆動力となって、ストーリーを進めていくのです。