『曼荼羅 若き日の弘法大師・空海』は、非常にテンポよく物語が進みます。時々挿入される日下武史のナレーションが、当時の社会情勢を簡潔な説明を観客に提供し、物語の軽快な進行に貢献しています。
空海は、最澄や白居易、元稹(げんじん)ら多くの歴史的偉人たちと交流しましたが、この映画では、彼らについては、ナレーションで説明されるのみで、画面には登場しません(橘逸勢は、一瞬登場します)。空海が主に交流するのは、名もなき人々です。彼ら名もなき人々との出会いと再会が物語を形作るのです。日本で出会う小槌(こづち)は、抑圧される民衆の代表として登場し、波乱の人生を歩みます。愛する椰(なぎ)を追って唐に渡るのですが、最終的に塩の闇販売のかどで兵に囲まれ、椰の目の前で殺されます。小槌を抱きかかえて歩いていく空海の姿で映画は幕を下ろします。空海と小槌の交流によって、弱き人々、虐げられる人々に寄り添う空海の姿が象徴的に描かれます。椰は、小槌と共に生まれ故郷を追われた女性。喜娘との出会いで、踊りという生きがいを見つけた民衆の一人です。日本で出会う安底利(あてり)、唐で出会う洞天(ドウテン)は、民衆の解放や救済のために奔走します。空海は、二人に義侠の士として賛辞を送ります。安底利と洞天が、民衆を救おうとする活動家とすれば、空海は密教を会得し精神的な側面から、民衆に救いをもたらす人物ということになります。また、香卉(コウカイ)は映画の中でおそらく最も弱い立場の人物ということになるでしょう。目の不自由な香卉は、動物や草花が友達です。灌頂を授けられた空海は、花、仏、そしてあらゆるものが大日如来であることを悟ります。したがって、香卉は日常生活の中でいつも大日如来と触れ合っている清らかな人物ということになるでしょう。彼ら名もなき人々の生き生きと、そして懸命に生きる姿を映画は描きます。そして、彼ら名もなき人々に、私たち観客は、自らの姿を重ねることになります。だからこそ、青龍寺で喜娘、大伴勝兄と共に椰、小槌、香卉が、居並ぶ僧たちに交じって、灌頂を受ける空海を見守る姿に、私たちは感動を覚えるのです。『曼荼羅 若き日の弘法大師・空海』は、空海と民衆のドラマであり、弱き人々の視点から当時の日本と唐の世相を描いているのです。