『イヤー・オブ・ザ・ガン』は、マスメディアをめぐるドラマでもあります。デヴィッドとアリソンは、マスメディアに身をおく者です。それぞれ、文章と写真という手段を使って、「赤い旅団」を報道し、名を上げようとします。しかし、二人より「旅団」の方が、マスメディアの使い方は上手でした。「旅団」は、二人を解放する前に、リアの死体の写真をアリソンに撮らせ、裏切り者の処刑を報道するように言います。「旅団」にとっても、自分たちの力、怖さを世間に知らしめるのにメディアは好都合な存在であり、結果的に二人は「旅団」に利用されたのです。
ラストでデヴィッドは、自らの体験をまとめた『イヤー・オブ・ザ・ガン』という本を上梓し、ニュースに登場します。ニュースキャスターに本について聞かれて、「自分は真実を述べただけ。本は独り歩きを始める。後は祈るだけ」と言葉少なに答えます。「旅団」を報道するつもりが「旅団」に利用されていた現実から、メディアの無力さを悟ったデヴィッドには、後は読者(大衆)の良識に委ねるしか希望は見出せないのでしょう。デヴィッドの本に、写真を提供することになったアリソンも、「現代はテロリストがマスコミを招く時代。報道なんて大した力はないと思う」と、ニュースキャスターの質問に答えます。アリソンも冷めた目でメディアの限界を語ります。しかし、ベイルートの紛争地帯で、今も写真を撮り続けるアリソンの姿からは、アリソンがまだメディアの可能性を信じていることも伺わせます。
希望は大衆の良識か、メディアか、どちらにあるのでしょう。映画は、ニュースキャスターが、デヴィッドとアリソンのインタビューの後、次のゲストであるイランの国連大使の紹介に、慌ただしく入るところを映し出します。この描写から、デヴィッドとアリソンが渾身の力で取材し、悪夢のような体験までして発表した本の話題も、マスコミが垂れ流す大量のニュースの一つに過ぎないことが分かります。結局は、ニュースの受け手である私たち大衆が、ニュースを単に消費するのではなく、充分咀嚼し、真実を見極める目を養うことが問われていることを映画は示唆して終わります。